NPO法人フリースクール
阿波 風月庵 -ふうげつあん-

東京 ひきこもり時代

かぜさんの「体験談」:3

二番風呂の富士を眺めます

私の本格的な不登校・ひきこもり時代は、東京での大学の1年間でした。下宿していた江古田6ヶ月と、アパートで仲間と暮らした東長崎6ヶ月です。そんな私にも友達が2人いて、毎日の様に来るA君と泊りがけで来るB君です。

日本家屋の一室に間借りしていて、8畳の客間と押入れが住まいでした。寝る時は、ベット気分で押入れに寝ました。勿論、昼夜逆転で、昼を過ぎて起床します。

同大学のA君は、授業後15時過ぎに来ます。雨戸を締めて眠る私を起こし、少しお喋りをして、近所の風呂屋に出かけます。風呂屋は15~24時営業で、一番風呂は近所の年寄りで賑わい、16時から我々二人だけの二番風呂につかり、壁の富士を眺めます。

それから17時開店直後の洋風食堂「モミ」で、いつもの(モミライス)を食べます。オムライス風の定番定食です。勿論ここも、我々二人の貸切り状態です。客が来始めると、店を出て帰宅します。部屋に戻り、ダラダラと昔の話をしました。

B君は、千葉に住み、2時間かけて週末に来ては、泊まることが常でした。 この間、二人以外との会話はありません。当時は「ひきこもり」の言葉もありません。

いざ、成田へ!

後半は、私の先輩が知人を連れて来ては、私の部屋に、いつも2~3人の居候がいました。いきさつは、覚えていません。しかし、その同居人の知人がやって来ては、語り合い、夜を明かし、朝方には解散して、部屋を出て行きます。 ひきこもりの私は住人ですが、主たる存在ではなく、皆の輪の端に位置していました。

住所不定で秋田出身の自称詩人は、独自の芸術論を語り、先人の詩人に対し痛烈な批判をぶつけ、私に同意を求めるのです。私は解りません。でも、面白かったのです。

福岡から来た自称カメラマンは、市民運動に属し報道関係で仕事をしていました。 それは雑誌「市民資料」の編集でした。  当時、色んな思想が市民の間で拡散され、池袋駅構内では、毎夜、帰宅途中者が集い、輪になり、政治的話題を論じ合っていました。  山手線各駅構内では、何処も、同じような風景がみられました。  そんな人が実際を知るために、全国の右翼から左翼までの論評を、各ニュース別に一覧にした雑誌が「市民資料」でした。

いつの頃からか、日の出と共に我家から、釘を打ちつけた角棒とヘルメットと白タオルを手にした若者数人が、成田を目指し出かけ(当時、あのスタイルで、電車で出かけていました)、1週間は帰って来なかったのです。

詩人にも、カメラマンにも、革命家にさえもなれない住人は、出かける仲間を見送り、窓から空を見上げてひきこもることで、東京青春時代を温めていたのでした。   かぜ