体験談;よく声を掛けられた 若いホームレス
私の人生を覗いちゃ だめっ! ダメッ!
誰かに聞く・相談するのが苦手
人生を振り返り、ひきこもりの兆候だったと思われるところを、3つの時期に分けてお話しします。
まず、幼少期から高校2年生でひきこもるまでのお話です。
幼稚園の頃、母に送り迎えをしてもらっていました。ある日、迎えが遅くなり、当時の私は見捨てられたと思い、凄く不安になってしまいました。
今考えると、「見捨てられた」と思い込んだのは極端だと思います。この極端な発想に直結してしまったのは、ひきこもりの特性であると思います。
自分で何か決め、責任を取ることを、当時から避ける傾向がありました。誰かに聞く・相談するのが苦手なのです。
自分一人で解決しなければいけないという思いが強く、勉強が分からなくても誰かに聞くことはしていませんでした。
対照的に、妹は、分からないとすぐ誰かに尋ねて判断していて、少し羨ましかったことを憶えています。
親が安心すると思い、留年を受け入れました
次は高校1年の1回目ひきこもり時代から、失踪に近い家出をするまでの時期です。
当時、修学旅行に行った直後に、大腸炎で一週間休み、それをきっかけに自分の部屋でひきこもり始めました。親に「学校に行けない」とは言えず、腹が痛いふりをしてトイレに篭もり、仮病を使い学校を休んでいました。
休む時も、自分で学校に連絡することはなく、親に連絡してもらいました。そこから半年間学校を休み続けた後に、留年の話が出てきました。留年する気は無かったのですが、親が安心すると思い、留年を受け入れました。
しかし、登校当日には「行きたくない」と言えず、自傷行為でアピールしました。結局留年はせず、親に休学の手続きをしてもらい、そこから1年ひきこもりました。
親と一緒にいるのが嫌だった
ひきこもり生活が長くなると、だんだんと家に居辛い気持ちが膨らんできました。
このままではいけないと、神戸の専門学校へ行く決心をしました。神戸を選んだ理由は、親と一緒にいるのが嫌だったからです。親を連想させる町、物の全てが煩わしく感じ、親の反対を押し切って行きました。
神戸では無我夢中で勉強しました。そのおかげで地元で就職することが出来ました。
ある朝、失踪をした
就職してからは、仕事が出来ない自分へのいらだち、上司との関係に悩み、毎日が辛い1年でした。
最後の頃は、朝起きると気持ちが悪くて、吐きながら職場に行っていました。今なら、大分神経が磨り減っていたと判断できますが、当時は全く解らなかったのです。
ある朝、全てを投げ出したい気持ちになり、失踪をしたのでした。
ネットカフェで財布を盗られました
その後、失踪から風月庵に出会うまでです。
高速バスに乗り東京へ行き、ネットカフェで時間を潰すだけの生活を始めました。 ネットカフェでは、店員さんに顔を覚えられたくなかったので、様々なネットカフェを転々としました。
逃亡生活中は、親が追いかけて来ることを避ける目的で、神戸までお金を下ろしに行っていました。親に見つからない為だけにそこまでするのは、今考えると異常だと思います。
逃げ出している負い目もあり、心が落ち着いて生活できる状態ではなかったのでしょう。夜中に原因不明の吐き気に襲われ、ネットカフェで失神したこともありました。 そんな生活が5ヶ月程過ぎたある日のこと、ネットカフェで財布を盗られました。
何気なく、話しかけてくれました
暫くして、頭を切り替え、じっとしているのも嫌で西へ向かって歩き始めました。ホームレス状態で彷徨っていました。 二週間、雨を凌げる屋根つきの公園を歩き回り、何とかしのいでいました。
若者のホームレスが珍しいのか、よく声をかけられ毛布を貸してくれ、ある人は自転車を使わせてくれました。ホームレスの方は本当に親切でした。
歩き続け、お腹が空き過ぎ、目まいがしてきたため、ある橋の下で暫く滞在しました。 そこには先客が居ました。最初の2日間は全く喋りませんでした。 暫くすると、何気なくその人の方から、話しかけてくれました。「そこの自販機はお金がよく落ちてるよ」等、色々と情報提供をしてくれました。
ある日、私の事情を話した時に、その人が「それやったら帰った方がいい」と言ってくれて、それが後押しになりました。
高校のひきこもり時代とは、少し違っていた
自分の意志で出てきた手前、自分で帰ると決心をするのは、嫌でした。「その人が言ってくれるから帰るんだ」と、自分に言い聞かせ、責任回避をしていました。本音は帰りたかったのです。
M市役所に行き、事情を話すと、直ぐ親と連絡を取って、迎えに来てもらい、無事に実家に帰ることが出来ました。 その後、実家で3年ひきこもりました。
高校のひきこもりは親を拒絶し、親と一緒にご飯を摂るのも嫌でしたが、戻ってからは、共に食卓を囲むようになり、その辺が、少し違っていたのです。
それは、母親自身が私を受け入れてくれる様に変わっていたのかもしれません。
ここなら分かってくれるかな
失踪から戻っての3年間で、私も少しずつ変わってきて、以前よりも外に出る回数が増えていきました。
その頃始めたダイエットで、気付くことがありました。昔は、毎日しなければと思い込み過ぎて、続かなかったのですが、今回は、休むことを受け入れられるようになったのです。無理なく自分のペースを守ることで、1年も続けることができたのです。 私にとって大きな変化でした。
この頃から、風月庵に興味を持ち始めました。 元々風月庵のことは知っていたのです。でも、気持ちは不安でした。 ただ、風月庵の会報を盗み見していましたから、「ここなら分かってくれるかな」と思い、その不安も軽減されていました。 親に知られない様に会報を1ミリの誤差も無く元の位置に戻しました。
行くと決めたのは夜中でした。そのまま母を叩き起こし、風月庵に行けるように段取りをつけてほしいと頼みました。 HK
注;この話しは、プライバシーを守る観点から、いくつかの事例を合わせ、一般化した内容です。